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大阪東北部から出発、奈良春日大社、東大寺、東大寺正倉院、二月堂に行きました。

2018年6月27日

大阪東北部から出発、奈良春日大社、東大寺、東大寺正倉院、二月堂に行きました。
この日、大阪に用事(留守にしている家の管理)で来て奈良に
行って取材、写真撮影のため朝10時から夕方4時までの様子を
書きました。

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奈良には縁が深く通勤したこともあり、東大寺は今回で4度目です。
全国有数のパワースポットであることから、一度行けば
お百度参り位ご利益があればと徒歩で廻り、詳しく書いてみました。
実際後に書きましたが、近所の人はここでお百度参りも出来るわけです。
奈良に住んでいる人は打ち合わせ、友達に会うときも
東大寺を利用します。

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出発です。
( 大阪から奈良へ )
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大坂東北部から旧国道170号を車で北に向かい大東市寺川で東に曲がり阪奈道路を
登っていきます。
生駒山北を数km走ると奈良盆地が開けてきます。
当日は水曜日ウイークデイです、天候は晴れで蒸し暑く
その日帰宅してラジオを聞くと気温が34℃まで上った様です。
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一番目  平城旧跡

更に数㎞行くと左側に平城旧跡があります。
数年前平城宮遷宮1250年の催しが開かれ、平屋瓦葺の大きい建物が出来ています。
また現代建築の回廊も出来ています。
私鉄線路の南側すぐ脇に山門が新築され真新しい朱塗りの建物があります。
平城宮の大極殿史跡は線路の東北側に発掘されています。人出は20人程でした。
駐車場管理、建物の食べ物や、図書館を兼ねたコーヒーショップなど
何人かの職員が働いていました。

    ( 平城宮 山門 )
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    ( 古代の船 )
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    ( 平城宮 宮人 絵画 )
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二番目 春日大社

更に東に4-5kmで、近鉄奈良駅、奈良県庁、県立図書館、興福寺などを見て、
春日大社、東大寺の間を山の方に向うクリーム色アスファルトの2車線の道路に出ます。
一番奥の春日大社まで走り、駐車の観光バスの隣で、11時-6時まで祈祷目的で1000円でした。
東大寺へは車で移動はしません。
ここを起点にすべて歩いて巡ります。
観光バスも10数台止まっており、2時間くらいで入れ替わります。
人出も昼頃は一番多く中国人、北欧人、南米人など賑わっていました。
時間が来ると観光バスで次の観光地に行ってしまいます。
そこから大社正門には、200mほど登ります。

    ( 正門 )
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      ( 本殿 )
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        ( 回廊 )
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    ( 春日大社 順路 )
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   ( 灯篭 )
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     ( 本殿 裏)
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    ( 春日大社 から 東大寺へ )
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回廊の脇には釣り灯篭、また外の周辺に古い灯篭が多数並んでいます。
苔むした様子から歴史が偲ばれます。
参拝入場料を払えば本殿近くまで入れます。
本殿は朱塗りも新しく色鮮やかな朱色です。

春日大社 寺社史  **** 出典ウキペディア ****
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まる[要出典]とする説もあるが、社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。
藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。850年(嘉祥3年)には武甕槌命・経津主命が、940年(天慶3年)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。『延喜式神名帳』には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。
藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空羂索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。
1871年(明治4年)に春日神社に改称するとともに官幣大社に列し「官幣大社春日神社」となった。1946年(昭和21年)12月、近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは単に「春日神社」となって他の多くの春日神社と混同することを避けるために現在の「春日大社」に改称した。
1998年(平成10年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に「古都奈良の文化財」の1つとして登録された。
創建以来ほぼ20年に一度、本殿の位置を変えずに建て替えもしくは修復を行い御神宝の新調を行う「式年造替」を行ってきており、最近では2015年(平成27年)から2016年(平成28年)にかけて第60次式年造替が行われた[1]。

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3番目 東大寺に向かいます。

そこから東北方向に200mほどで東大寺につながる道(クリーム色アスファルトの道)です。
そこから奈良公園を北西に突っ切って東大寺に向かいます。後ろ右手後方すぐ近くに若草山が
見えます。野焼きで有名で、山に木は無く、若い草が生えています、ごく近くに見えて
歩いても200-300mの感じです。
途中平屋の大きい屋根が特色の奈良春日野国際フォーラムがあります。
その脇を通り奈良公園の芝生の真ん中には川が流れています。絵を描く人が何人も
写生していました。

    ( 東大寺 順路 )「
27日 東大寺_題.jpg

    ( 東大寺大仏 )
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      ( 奈良公園 )
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   ( 南大門 )
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   ( 南大門 仁王 )
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    ( 中門 毘沙門天 )
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    ( 大仏殿 )
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     ( 奈良公園 順路 )
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東大寺南大門に続く西側に茶店があります が、今日も混んでいました。
人種は中国人が目立ちますが、北欧、南米、東南アジアらしい人もいました。
観光バスで巡る人だけでなく、数人のグループで来ている外国人もいました。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは天平15年(743年)です。

東大寺  寺社史  *********

創建と大仏造立[編集]  **** 出典 ウキペディア ****
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ[4]、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
東大寺と橘奈良麻呂[編集]
大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。
天平勝宝8年(756年)5月2日、聖武太上天皇が崩御する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ。」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったという。
奈良時代・平安時代の東大寺[編集]
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。
奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗る[5]が、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。
えている。
中世以降[編集]
東大寺は、近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席の下、大仏開眼法要が、建久元年(1190年)には上棟式が行われた。建久6年(1195年)には再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれた。
その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した(東大寺大仏殿の戦い参照)。天正元年(1573年)9月、東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している[6]。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶(1648 - 1705年)の尽力や、江戸幕府将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている[7]。

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4番目 正倉院

東大寺南大門を抜け、中門に来ます。
ウイークデイとはいえ観光の人出はかなり多く、近くの連れ合い(若い人、おばさん)
も中門の入口の腰をおろして話している様子でした。
私も、中門の敷居に腰を下ろして休みました。中門の守り神2体も写真に
収めてあります。仁王様ではありません。
拝観料が要りますが、大仏殿の中、大仏のすぐ近くで見ることは出来ます。
休んで中門東に回り北裏側の正倉院に向かいます。
気温と出る汗で息切れがひどくなりました。
大仏殿の大きさは半端ではなく、土の塀を抜けるのに500m以上は有ります。
裏側を西に歩いてはずれ近くで北に曲がり、さらに400mほどで
正倉院です。
今回何か正倉院壁面特別公開をやってました、中央の入口を入ると
左すぐ目の前が瓦屋根の正倉です。
正倉院に行くすぐ手前に、露出した石の礎石のみが残っている場所があります。
東大寺の昔の規模が偲ばれます。

    ( 正倉院 入口 )
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     ( 正倉院 )
正倉院-in.jpg

概要[編集]  **** 出典ウキペディア ****
元は東大寺の正倉(倉庫)だったが、1875年(明治8年)3月10日、収蔵されていた宝物の重要性に鑑み、東大寺から内務省の管理下に置かれた。1881年(明治14年)4月7日、農商務省の設置に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、1884年(明治17年)5月に宮内省所管となった。1908年(明治41年)4月、正倉院は帝室博物館の主管となり、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)5月3日に宮内府図書寮の主管となった。現在は宮内庁の施設等機関である正倉院事務所が正倉院宝庫および正倉院宝物を管理している。
正倉院の宝物には日本製品のみならず、中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品[1]を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫である。シルクロードの東の終点ともいわれる。
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5番目 二月堂  

ここで一旦茶店に行きお茶を買いました、すごい汗で、悪くすると
熱中症になるかと心配になりました。
みたらし団子、かき氷、ジュースなど、また鹿にやるせんべいも売ってます。
大仏殿の塀の東南隅まで戻り、そこから二月堂に少し登り道です。
二月堂は毎年お水取りがテレビで放送されるので、その広い境内と
舞台が印象的です。

   ( 二月堂 )
二月堂題.png

概要[編集]  **** 出典 ウキペディア ****
二月堂は、東大寺金堂(大仏殿)の東方、坂道を上り詰めた丘陵部に位置する、十一面観音を本尊とする仏堂である。すぐ南には三月堂の通称で知られる法華堂がある。これらの堂が所在する一画を「上院」(じょういん)と称し、大仏開眼以前から存在した、東大寺の前身寺院があった場所である。
東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより、創建時の建物の大部分を失っている。二月堂はこれらの兵火では類焼をまぬがれた[1]が、寛文7年(1667年)、修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失。現存する二月堂はその直後の寛文9年(1669年)、江戸幕府の援助を得て、従前の規模・形式を踏襲して再建されたものである。
創建[編集]
東大寺の寺伝では、修二会は実忠によって始められたもので、大仏開眼供養と同年の天平勝宝4年(752年)に初めて行われたとされ、二月堂の創建もこの時とされる。堂の創建については同時代の史料に言及がなく、確実なことは不明である。二月堂や南隣の法華堂付近は、大仏開眼以前から東大寺の前身にあたる福寿寺や金鐘寺などの寺院が存在したところであり、二月堂前の仏餉屋(ぶっしょうのや)の解体修理に伴う発掘調査によって、前身寺院の遺構や8世紀前半の瓦が検出されている。[2]
『二月堂縁起絵巻』(天文14年・1545年)等が伝える寺伝によると、修二会の始まりは次のようであった。天平勝宝3年(751年)のこと、実忠が笠置(現在の京都府南部、笠置町)の龍穴の奥へ入っていくと、そこは都卒天(兜率天)の内院に通じており、そこでは天人らが生身(しょうじん)の十一面観音を中心に悔過(けか)の行法を行っていた。悔過とは読んで字のごとく、自らの過ちを観音に懺悔(さんげ)することである。実忠はこの行法を人間界に持ち帰りたいと願ったが、そのためには生身の十一面観音を祀らねばならないという。下界に戻った実忠は、難波津の海岸から、観音の住するという海のかなたの補陀洛山へ向けて香花を捧げて供養した。すると、その甲斐あってか、100日ほどして生身の十一面観音が海上から来迎した。実忠の感得した観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かかったという。 [3][4]
以上は説話であるが、ここに登場する実忠という人物は、その出自等の詳細は不明ながら、実在の僧である。『東大寺要録』に引く『東大寺権別当実忠二十九箇条』に、実忠自身が「さる天平勝宝4年から大同4年に至る70年間、毎年2月1日より二七日(14日間)の間、十一面悔過を奉仕した」という意味のことを書き残しており、これが修二会の創始を天平勝宝4年とする根拠の1つとなっている。ただし、「天平勝宝4年から大同4年」は、70年ではなく58年である。[5]
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帰り道 ****

春日大社への帰りは奈良公園を東に抜けて、万葉植物園に着きます。
杉並木に覆われていますが、暑さと、汗、息切れで大分大変でした。
万葉粥を食べようと思いましたが、狭い茶屋の上、混んでいて断念しました。
外国のお客様も、日本人も万葉粥は家族連れが多かったです。
灯篭の間を抜けて大社正門前で東に折れ駐車場に来ました。
ペットボトルのお茶で休憩を摂り3時半に時に帰路に就きました。

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